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校長☆副校長 Archive
第10回:頑張っていれば・・・・
- 2020-08-01 (土)
- 校長☆副校長
こんにちは。宮元です。
私にとっては計算をする機器というイメージが強かったコンピューターですが、マイクロプロセッサーを搭載したコンピューターは、小さなプリント基板上にまとめられ、他の機器に組み込まれてその機器を制御するコントローラーとしての使い方が強く意識されていたんだと、後々思うようになりました。
計算だけを目的にしたプログラミングに少し飽きていた私は、マイクロプロセッサーに関する雑誌や書籍を割ける限りの時間を使って読みました。その一方で、第6回目にも書きましたが、本来の勉強への熱意をなくしていきました。
すべきことに行き詰ったとき、別の何かに興味が湧いて気持ちが高揚してくると、行き詰っていたことの対しても頑張ってみようという気持ちになるものだと思っていました。しかし、この時は違っていました。そんな気持ちにはなりませんでした。一方で、学費や生活費を工面してくれている両親に対して、このままおかしなことになってしまったら申し訳ないとも思い始めました。大学の勉強を投げ出してしまわなかった大きな理由だったかもしれません。
残り1年と半分、卒業するために最低限のことだけはやろうと思い直し、授業は休まないようにしながら、マイクロプロセッサーの勉強も続けました。でも、書物を読むだけでは面白さ半減です。本当は、実物に触れながらが一番いいのですが、お金と時間が足りません。これは諦めましたが、さらに情報処理技術者試験を目標に受験勉強も始めました。電子計算機研究会の人たちの力を借りながら勉強してきたことがどれほど通用するのか試したくて受験してみることにしたのです。
そうこうしているうちに最終学年の10月になり、情報処理技術者試験です。当時の第2種を受験して合格しました。合格して何かができるようになるということではないのですが、うれしかったですね。
さらに、時系列的にはこっちのほうが早いのですが、この半年前、頑張っていればいいことってあるんだと思ったことがあったんです。さて、それは・・・・
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第9回:伝わりますか?
- 2020-07-20 (月)
- 校長☆副校長
宮元です。
コンピュータープログラミングは楽しいと言ってきました。しかし、プログラミングの何が、どこが楽しいのかと尋ねられると、ハタと困ってしまいます。いろいろ考えてみたのですがやはりうまく説明できません。そこで、仕事で得た感動から説明のヒントが見つかるかと思い、振り返ってみます。
社会人になってすぐの仕事は、第4回目で紹介したような大型汎用コンピューターで動くプログラムを書くことでした。実際は、その何年も前に誰かが好き勝手に書いたプログラムを、一定のルールに従って書き直す標準化という作業でした。本来のプログラマーの仕事は、設計者が意図した処理を間違いなくプログラミング言語で表現することです。加えて、処理効率がよく、後々保守しやすいプログラムが書けるかどうか、プログラマーとしての腕の見せ所です。職業人としてのプログラマーにはさらに、決められた時間内、予算内でという制約が加わります。
膨大な量のデータを一瞬で処理するコンピューターのプログラムを、いろいろな条件・制約の中で書いて、それが世の中の役に立っていると感じたときの想いやら、プログラムで表現した処理を間違いなく遂行するコンピューターというハードウエアそのものに対する「すごい機器だ」という感動、そういうものを考え出し作ってしまう人間のすごさに高揚感を覚えるのです。
1980年頃は情報処理産業の認知度も地位も低く、無理難題を強いられ、今でいうと完全にブラックな働き方もしていました。肉体的にも精神的にも苦しくて辛い思いもするのですが、そんなもの、お客様の「ありがとう」の一言で吹き飛んでしまい、また頑張ろうと思い直すことの繰り返しでした。
私はかねがね「コンピューターは人間が考案し作り出した傑作の一つ」と思ってきました。どんな形であるにせよ、傑作であるコンピューターを身近に感じていることが楽しいのかなと思います。そんなわけですから、プログラミングだけが楽しいのではなく、そのプログラムに従って動くコンピューターという最高傑作の一つにかかわっていられることが楽しいのです。
この説明でわかっていただけるでしょうか。
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第8回:「TK-80」のおかげ
- 2020-07-10 (金)
- 校長☆副校長
こんにちは。宮元です。
TK-80を買いたい一心で数か月間ハードなアルバイトをし、やっとのことで手に入れました。キットだったので届いたその日のうちにパーツのはんだ付けをして完成状態にしたように覚えているのですが、記憶違いかもしれません。
ミニコンピューターOKITACには言語翻訳プログラムというものが用意されていて、FORTRAN言語で書いたプログラムはFORTRANコンパイラーで、アセンブリー言語で書いたプログラムはアセンブラーとよばれる言語翻訳プログラムで機械語に翻訳できるようになっていました。
言い遅れましたが、コンピューターは、そのコンピューター固有の機械語で書かれたプログラムしか実行できません。その機械語は、基本的に0と1だけの2進数で表されるので、わかりづらいことこの上ありません。そこで、より自然語(日本語や英語等々のこと)に近い形でプログラムが書けるようにいろいろなプログラミング用言語と、それで書かれたプログラムを機械語に翻訳するプログラムが開発されてきました。
TK-80は貧乏学生には高価でしたが、コンピューターとしてはものすごく安価なものでした。ですから、コンパイラーとかアセンブラーとかいう高価なソフトウエアをつけることはできなかったのでしょう。
TK-80でプログラムを動かすためには、まず、アセンブリー言語でプログラムを書き、それを自分の手で機械語に直し、それを16進数に読み替えながらキーボードから入力して実行という手順を踏みます。ものすごく面倒でしたが、機械語やアセンブリー言語によるプログラミングの勉強は、コンピューターの動作の仕組みを理解するには大変有益でした。
下は、アセンブリー言語で書いたプログラムがどういうものか、そのサンプルです。機械語は忘れてしまっているし、桁違いに面倒なので省略します。
それにしてもわからないものですね。第4回のOKITACやこのTK-80でのプログラミング経験が後の仕事に結びつくんですから・・・・。
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第7回:欲しくてほしくて
- 2020-07-01 (水)
- 校長☆副校長
こんにちは、宮元です。今日も元気ですか。
さて、ある時期から「マイクロプロセッサー」ということばを耳にすることが多くなり、専門雑誌が組んだ特集でその全貌を知るようになりました。「Intel(インテル) はいってる」というコマーシャルが一時期テレビで流れましたが、あれです。
だんだんと雑誌で取り上げられることが多くなり、できれば所有して、自分のコンピューターとして動かしてみたいという欲望が湧いてきました。が、マイクロプロセッサーだけを入手したところでそれだけでは何もできない、マイクロプロセッサーを搭載したマイクロコンピューターはあるにはあったのですがものすごく高価。ですから、個人が趣味で所有できるようなものではないと思っていました。貧乏学生ならなおさらです。
ところがある日、専門雑誌の裏表紙に掲載されたコマーシャルで、こんなものの存在を知ったのです。このあたりから、専門用語が多くなるかもしれませんが悪しからず。
第1回目に出てきた「8080マイクロプロセッサー(縦向きに配置された4つの白い長方形状のもので最大のもの)」を搭載したワンボードマイクロコンピューターです。実際の寸法は、31cm×18cmです。「NEC」の文字が見えますが、もともとは社員のトレーニング用に開発したものでしたが、評判がよかったので売り出してみたら爆発的に売れたんだそうです。
右上の7セグメントディスプレイを見ながら、右下のキーボードからプログラムなどを入力するというものです、キーボードの左側の格子状になっているところにパーツをつけて簡単な拡張ができるようになっています。10万円以上だったと記憶していたのですが、ネット検索によると売り出し価格は8万8,500円でした。高価だが一般人でも所有できそう、ぜひとも所有しようと考えた最初のコンピューターでした。
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第6回:こんなはずじゃなかった・・・・
- 2020-06-15 (月)
- 校長☆副校長
こんにちは。宮元です。
そのうちに、FORTRAN言語に続いてアセンブリー言語の勉強も始まりました。メーカー主催のプログラミング講習会にも顧問の先生と一緒に参加したことを覚えています。コンピュータープログラミングを勉強してどうする、なんてことは考えていませんでした。理由ははっきり言えません。とにかく楽しかった。
それに対して、正規の授業のほうはというと、全く興味がわきませんでした。コンピューターに対する興味がどんどん大きくなるのとは対照的に、授業はどんどん面白くなくなっていきました。
「電子物性」、私が籍を置いた電子工学科の研究対象で、ざっくりいうと、物質の中の電子の振る舞いの研究です。そのことは、入学した時点でも全く知りませんでした。学年が進むにつれて分かってきたことでした。
本来注力しなければならないことに興味を失ってしまったのは私の問題です。大学進学を勧めてくださった中学の先生が悪いのではなく、何のアドバイスもくださらなかった高校の先生が悪いのでもなく、ましてや大学が悪いのでもありません。大学がどういうところなのか、何を勉強、研究するところなのかについて、全く知ろうとしなかった私が悪いのです。一時は、大学退学も考えて専門学校のパンフレットを取り寄せたりしました。本当です。
時代が大きく変わりテクノロジーが進歩して、ありとあらゆる情報を簡単に手に入れることができます。大学への進学を考えている人は、それを利用して、大学で取り組むであろうことが果たして自分の望むことなのかをぜひとも確かめてください。「いったい何のために大学に進むんですか。」 即答できますか?
さて、そんな中で、さらに私の心を揺さぶったもの・・・・ それは「TK-80」
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第5回:番外編「母校・同窓会」
- 2020-06-08 (月)
- 校長☆副校長
こんにちは、宮元です。
先週、大学の卒業学部の同窓会事務局から電話をいただきました。同窓生名簿作成の賛助金を募る内容でした。何か月か前に封書が届いていて応じようを思っていたのですが、コロナウィルス騒動や何やらで忘れていました。
同窓会といえば、真っ先に頭に浮かぶのが中学の同窓会です。今でも同学年の同窓会が4年に一度開かれているのですが、学校の同窓会組織が開いているものではなく、地元に住んでいる同級生有志が開いてくれています。もう何回参加したか、数えられなくなりました。時には日帰りのバスツアーを計画したりして、毎回必ず誘ってくれます。これ、嬉しいですよ。ですから私もできるだけ都合をつけて参加するようにしています。
次に高校の同窓会ですが、かつては同窓生名簿作成のための賛助金等を求めるダイレクトメールが来ていましたが、一度も協力した記憶がありません。同窓会の案内もいただいた記憶がありません。同窓会を計画したこともありません。
さて冒頭の大学の同窓会についてですが、以前から高校のそれと同様に寄付金等を募るDMが時々届いていました。
この後お話ししますが、私は大学で自分が籍を置いた学科の勉強を真剣にやったと言い切れず、工学部・電子工学科の卒業生です、同窓生ですと胸を張っては言えない後ろめたさみたいなものを感じています。そんなこともあって、そういうものには応じてきませんでした。
ところが、何年か前に工学部の周年記念の寄付金募集のDMが届いたとき、卒業して40年も経っているのにというか、経ったからというか、急に、今の自分があるのはこの大学のこの学部に籍を置けたからかなと思うようになり寄付をしました。
情けない卒業生ではありますが、今回もそういう気持ちで賛助金を出させていただきました。
若い皆さんは「母校・同窓会」というものにどんな想いをもっているのでしょうか。卒業後何十年も経っている皆さんはどうでしょうか。
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第4回:これがコンピューターだ !
- 2020-06-01 (月)
- 校長☆副校長
こんにちは。宮元です。上の写真、何だかわかりますか。
これ、実は私が生まれて初めて触れてプログラミングしたコンピューターです。「OKITAC-4300」という沖電気工業製のミニコンピューターです。参考までにミニコンピューターの対極にあった大型汎用コンピューターの写真もお見せしておきます。
(“汎用コンピューター”でgoogle検索した結果からの転載)
就職してからこの手の大型汎用コンピューターで仕事をするようになりました。富士通製でこの規模だとおそらく数億円していたでしょう。そして何と、これら2種類とも計算しかできず、その計算性能面でも皆さんが持っているPCに遠く及びません。
さて、運よく工学部・電子工学科に滑り込めて電子工学の勉強が始まり、一方で、「電子計算機研究会」に入って、冒頭のミニコンピューターを使いながら先輩からFORTRAN言語によるプログラミングを習い始めました。今となっては死語ですが、昭和48年当時は「電子計算機」とか「電算機」いうことばを使っていました。
このミニコンでも当時、数千万円はしたと思います。そんな高価な電算機の圧倒的な(?)計算力を目の当たりにしている状況にワクワクしていました。「あぁ、これがコンピューターだ!」 今でも記憶の残っているのは、円周率を小数点以下1,000桁まで求めるプログラムです。このミニコンで3時間以上かかりました。あーっ、楽しい大学生活・・・・。
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第3回:電子工学科に進もう
- 2020-05-15 (金)
- 校長☆副校長
こんにちは。宮元です。
皆さんの中にもできれば大学に進学しようと考えている人は多いでしょう。そこで質問です。「いったい何のために大学に進むんですか。」 私の場合はこうでした。
中学卒業後の進路を考えたとき自分の家庭の経済状況を考慮して、工業高校に進んで早く働いたほうがいいと思っていました。親には言いませんでしたが、担任の先生には言わざるを得ません。すると、先生も我が家の経済状況はある程度ご存じだったのでしょう。こうおっしゃいました。
「奨学金をもらう手続きをしてやるから、お前は普通科に進め。そして大学に行け。」
そうして進んだ高校ではラジオ部に入って、アマチュア無線や電子工作、文化祭や体育祭では放送設備の準備などで楽しく過ごしました。高校3年生だったと思いますが、私の興味がちょっとだけ揺さぶられたできごとがありました。数学担当の先生だったでしょうか、ある日、教卓の上を占領してしまうほど大きな図体をしていながら四則演算しかできない卓上計算機を見せてくださったのです。今言うとそういう表現になりますが、当時の私は「わっ、すごいものがある。」でした。そのものじゃありませんが、こんな感じです。(“卓上計算機”でgoogle検索した結果からの転載です)
ところで大学の話ですが、「工学部・電子工学科へと」迷わずに決めました。理由は、今振り返れば書くのも恥ずかしいほど単純、幼稚です。
・小学生の頃、故障した家電製品の修理に来てくださっていた人の働きぶりが格好良かった
・自分自身も、ラジオやオーディオアンプ、無線機といったものの仕組みに興味があった
・大学に進めば、電気・電子機器を扱う技術者になれると思っていた
「大学は基本的に研究をするところ」という意識はまったくありませんでした。電子工学科に進めば本当に自分の興味を満たせるのかなんて考えてもみませんでした。のちにこのことで苦しむことになるのですが、それは後ほど。
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第2回:・・・・との出会い
- 2020-05-01 (金)
- 校長☆副校長
こんにちは。宮元です。
それまでやっていたことを中断して何か別のことをする。この中断を「割り込み」といいます。人間社会では嫌われる割り込みですが、機器に組み込まれているコンピューターは特に、この割り込みをうまく使っています。さて、第1回の話の続きの前に「割り込み」です。
私の小学生時代は、後に「巨人・大鵬・玉子焼き」と呼ばれる時代でした。野球好きで巨人ファン、中学では軟式野球部でした。3年生になって活動を終えるとき、野球に代わる何かを見つけなきゃと思いました。他の多くの同年代の人たちと同様に野球選手になりたいと思ったこともありましたが、3年間野球部にいて、自分はアスリートにはなれないと悟っていたからです。
そんなとき、何という雑誌だったかは覚えていませんが、ラジオの仕組みを勉強する通信講座の広告が目に入ったのです。理論を勉強しながら、送られてくるパーツを使ってラジオを製作するという講座、すごく楽して、あっという間の半年でした。「JOCR、こちらラジオ関西です。」 製作したラジオから流れ出た最初の音声でした。(私、兵庫生まれの兵庫育ちです)
自分で言うのも何ですが手先は器用なほうで、小学生の時は「プラモデルを買ってくれ。」とよくねだったそうです。「手先、指先で何かをするのが好き」は私の興味の根底を流れるもの。今思えば、このラジオ講座との出会いがきっかけとなったのかもしれません。ラジオの後は、アマチュア無線、無線機、オーディオアンプへと移行しました。
To be continued ・・・・
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第1回:・・・・のはじまり
- 2020-04-22 (水)
- 校長☆副校長
こんにちは。宮元です。
最近、はまってしまいそうなことに出くわしたので、それに関係する話を綴ってみようと思います。
「誰か8080マイクロプロセッサのプログラムを、アセンブリ言語で書ける者はいないか。」
もう40年以上前の、システム開発会社に入社してもう8か月が過ぎたかと思ったある日、組込みシステム担当の上司からこんな問いかけがありました。
アセンブリ言語でのプログラミングがどういうものか、学生時代の独学でほんの少しだけ知っていた私は、怖いもの知らずで、
「書けるかもしれません」
と返事をしてしまったのです。テレホンカードで電話がかけられるようになった頃、他部署がやっていた電話機に組み込むシステムの開発を面白そうと感じていたこと、独学で学んだことが活かせると思ったことがその理由でした。その日の夕方にはもう、「明日、話を聞きにお客さんのところに行くぞ」というところまで話が進んでいました。
仕事の内容はこんな具合です。発注元は、とある電子機器メーカー。この会社が、寒冷地の道路の両側に設置された融雪用の散水機の制御を事務所内でやりたいという某自治体からの要望を受け、ハードウエアは自社でやるからソフトウエアをやってもらえないかというのが話の内容でした。さて、この話、この後いったいどうなったのでしょうか。
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